再会
再会して数日、バリ島の暑さにも慣れた頃、彼から提案がありました。
結婚式を挙げるためには少しまとまったお金がいるし、ホテルを出て、彼の実家に移り、ホテル代を節約するのはどうか?と。
なるほど、少しでも節約できるほうがお財布にはいい。
ところが、キッチン、トイレ、お風呂場などの大事なところの記憶が私にはなかったので、彼に、「ご飯はどうするの?」と聞くと、「レストランに買いにも行けるし、お母さんたちが作ったのを食べられるから大丈夫だよ。」
と、キッチンはあるようでした。
お風呂もトイレも見ていないと話すと、「もちろん、あるよ」と笑いながら答えたので、少し安心していたのでした。
「でも、近くに滝がある川があるから、そこにマンディしに行こう、家より気持ちいいよ。」と、さすがヒンドゥー教徒。
マンディはインドネシア語で水浴びのことです。
神々の住む島であるバリ島のヒンドゥー教徒は、朝起きてから暗くなるまで、参拝や寺の仕事があるため、一日に何度も身を清める習慣があるのです。
とても暑いバリ島なので、自然の川や滝に打たれに行けるのなら、とワクワクし始めました。
結局、節約のために、早めに彼の実家に移動しようということになりました。
安価なバリ島民のお財布事情
このような話が持ち上がる理由は、当時の日本円に対してインドネシアのルピアはとても安く、日本人の私たち観光客にとっては暮らしやすくて助かっていました。
ナシブンクスというバリ島風お弁当があります。
バナナの葉に包まれていて、ご飯と、テンペイと、卵などの少しだけおかずが入った昼食なのですが、日本円にしてなんと50円!!で売っているのを見たことがあります。
そのころ、瓶のコカ・コーラも50円でした。
食事がついていない、エアコンなしの安いホテルで一泊2000円ほど。
そしてホテルに勤めている人たちの毎月のお給料は13000円ほどでした。
彼らにとって、一泊2000円とは、なんて贅沢な出費でしょうか。
ちなみに、この頃のインドネシア公務員の1ヶ月のお給料は30000円ほど。
国はイスラム教なので休みが多く、特別に公務員には、お米や調味料がお給料と別に支給されていました。
どこの国も公務員になると、一般の人々よりも生活の補償がされているようですね。
再会してからは、しばらく町を楽しんでいましたが、いよいよ、村に向かう日がやってきました。
泊まっていたホテルはクタにありました。
バリ島では有名なショッピングエリアで、歩いてすぐにビーチにも行けるのでサーファーも多く、有名なハードロックカフェもあるような人気エリアでした。
ここから道路が混んでなければ30分程、長旅の用意で日本を出てきた私は、とにかく大荷物なので、今回はタクシーで移動しました。
バリスタイルの暮らし
到着すると、大勢のファミリーが、家から私の荷物を運びに手伝いに来てくれて、彼と何か話しています。
どうやら、家族みんなに、今日から私がここで暮らすことを話しているようで、みんなビックリしていました。
村の人も珍しそうに見物しに来ました。
お兄さんの家にまずは荷物を置きに入りました。
お兄さんが自分で建てたという家には、お兄さん夫婦と女の子、お母さんと末っ子の高校生の妹が暮らしていました。
前回訪れた時には、家の外でバリコピを頂いただけだったので、気付かなかったことがたくさん見えてきました。
バリ島では、父系の男子で大家族となり、彼の家の場合は、2000坪より大きな敷地にみんなで暮らしていました。
何人で暮らしていたか数えてみようと思いますが、なんと、6つの建屋に22人で、暮らしていました。
つまり、キッチン、トイレ、シャワーなどが共同なのです(泣)。
おじいさんの息子(彼のお父さんの世代)が4人、その息子(彼の世代)4人がそこに家を構え継承していくことになるようです。
特にセレモニーなどは家族共有で行われるので、真ん中に、祭祀を行うための壁のない神様の家があります。
壁が無いというのは、柱と屋根だけなのです。
日本で言うところの、神棚のようなものですが、畳で言えば、8畳ほど、高さも3メートルほどありそうな大きな神様の家でした。
そして、この神様の家を囲むように家を建てていきます。
驚いたのは、家族所有の広い敷地の中には、
日本で言うところの、仏壇やお墓のようなエリアもあるのです。
もちろん、ヒンドゥーの神様がいらっしゃるエリアも、
祭祀する神様の家だけではなく、別にありました。
気になったので、彼に聞くと、バリ島ならではの、建物などの配置が存在するそうで、
どこの家も大体同じようで、風水や家相のような考え方があるのだなと、感心しました。
余談ですが、バリ島の人々は、6つの暦を使い分けていると聞いたことがあります。
彼の家にあるカレンダーを見てみると、西暦以外は解読できませんでしたが、
何種類かの暦が重なっているようでした。
この暦を見て、農作業の時期を決めたり、
セレモニーの日時を決めたりすると教えてくれました。
すぐに夜になりました。
夜8時には深夜のような静けさに包まれ始めます。
外灯などほとんどなく、ここには、テレビも1台しかなく、
でもその遠くにあるテレビから流れる音が闇と、時々は虫の声と共時します。
9時になると、テレビも消え、まるで真夜中のように村中が静まりかえります。
私たちも、空けてくれた部屋で寝ることにしました。
真夜中2時ごろに鶏の鳴き声でふと、目が覚めました。
バリ島の鶏は早起きだなぁ、と思いながら、また眠りに落ちましたが、次には、鳥の声と共に、賑やかな話声が聞こえ、目が覚めました。
よく寝たような気がしましたが、なんと、まだ朝の四時半です。
昼間のように叔母さんたちは、盛り上がって話しながら、料理をしているようです。
わたしたちの部屋は、キッチンの隣にあり、この話声と料理をするサウンドが、毎朝恒例のものとなっていくのでした。
気になり始めると寝ていられず、ゆっくり起き始めると、ちょうど彼も起き、コーヒーを作りにキッチンに行くことになりました。
時は2000年頃のバリ島。今では、びっくり!のキッチン事情や風習のお話が次回も続きます。